「毒」がなくてはつまらない  「蜜」がなくては諭しめない  「骨」がなくては意味がない

Opinion|2022/05/06|星子 繁

ヨットでの太平洋航海と航海記の
執筆を終えて

 サラリーマンにとって「冒険」という言葉は縁の遠い言葉だろう。大部分のサラリーマンは日々上司の指示に従っていかにリスクを避けるか気を揉みながら仕事をこなしているといった姿が浮かんでくる。私も時に部下として時に上司としてそのような生活をしてきた。 しかし歳をとっても「冒険」に憧れを持ち続ける人間もいる。私もその一人であった。還暦を過ぎてその冒険に踏み出した。

 五十歳を過ぎてから本格的に始めたヨットで太平洋を単独航海してみたのだ。海事規則の知識もセーリング技術も未熟なまま退職前に米国でヨットを手に入れあと戻りできない状況を作り出した。ヨットの名前を「蒼穹」と命名し定年退職後の2012年春にオレゴン州のアストリアという港から北米の西海岸を北に向けて航海を開始した。そこでは日本では経験したことのない景色とヨット生活が待っていた。入江の奥に佇む瀟洒な家族経営のマリーナ、切り立った崖に挟まれたフィヨルドの奥に潜んでいた青白く輝くアラスカの氷河など陸上からは近づくことのできない場所と人々との出会いを経験することができた。単独航海では多くの困難に遭遇することもあるがそれを一つ一つ乗り越えることで得られる達成感と海と船に対する知識の蓄積には大きなものがあった。アラスカのスキャグウェイまで行きそこで南に向けて折り返し航海を続けた。その際に訪れたカナダのクイーンシャーロット諸島やバンクーバー島の太平洋岸の手付かずの自然の美しさは忘れられないものであった。この年はそのまま南に戻りサンフランシスコで越冬した。

 ヨットでの航海に多少慣れたことに気を良くして2013年にはサンフランシスコを後にしてメキシコに立ち寄ったのちそのまま西に向かい赤道を越えた後にフランス領ポリネシアのマルケサス諸島に向かうことにした。映画「キングコング」に出てくるようなヌクヒバ島やタヒチのライアテア島、ボラボラ島など南太平洋の珊瑚礁に囲まれた島々の訪問とそこで出会った人達との出会いは私の中でとりわけ楽しい記憶として残っている。特にポリネシアの西端に位置するマウピティ島とモペリア島での現地家族との出会いと別れは私にとって大切な思い出となっている。

 ところがこの年の9月にそのモペリア島を出てクック諸島に向かう途中でマヌアエとういう無人の珊瑚礁に夜中に船を乗り上げ遭難する事故を起こした。珊瑚礁からヨットを引き出そうとして錨を打ちに海に飛び込んだものの危うく溺れそうになった。やっとの思いで船に這い上がったがヨットが浸水し始めたので結局緊急救助信号を発し翌朝フランス海軍のヘリコプターに吊り上げてもらうことで九死に一生を得ることになった。南太平洋を単独で航海する人間とヨットに対しては保険会社に保険をかけてもらえてなかったのでこの事故で私はヨット「蒼穹」を完全に失うことになってしまった。

 タヒチ政府との遭難の事後処理や珊瑚礁での負傷もあり疲労困憊して帰国したあとはしばらく意気消沈していたが2014年の年も明けた頃に懲りずに残っていた貯金を叩いてオーストラリア、シドニーで船齢40年を超える半木製の老朽ヨットを手に入れる自分がいた。おのれの無鉄砲さといい加減さには我ながら呆れる。この時の妻の呆れたような顔つきが思い出される。手に入れたヨットの船名の「ヘディング・リバティー」はそのまま引き継ぐことにした。船の名を変えることは船の神様が怒って船を沈めるので縁起が悪いというタヒチのヨットマンの忠告に従ったためだ。このヨットで2014年の5月にシドニーを出発したが南半球の冬が近づいたタスマン海は荒れていて帆を暴風で失ったり、電気系統故障で船火事になりかけたり散々な目に遭いながらニュージーランドに着いた。このままでは無事に日本まで帰ることは大変だと思いニュージーランドで9ケ月ほどかけてヨットをほぼ完全に整備し直した。

 2015年5月になんとかニュージーランドを出発し遭難現場のマヌアエ環礁を訪れ、慌ただしい別れとなっていた「蒼穹」の弔いを沖合の海から手を合わせて行なった。そこから数日かけてクック諸島のスバロフ環礁に投錨停泊した時には気が抜けたようになった。 その後1年ほどかけて南太平洋の国々、サモア、トンガ、フィジー、バヌアツを回り再び北半球に戻ってさらにミクロネシアの島々を訪れた。2016年夏には良き相棒となった「ヘディング・リバティー」と共に無事に太平洋周航の旅を終え日本に帰国することができた。

 帰国してしばらくは海に出る気もなく家庭菜園を耕したりしていたが単独航海では行く事ができなかった太平洋のある海域が気になっていた。ヨットマンがよく話題にする南米最南端に位置するホーン岬と南極半島である。ドレーク海峡に面した南米最南端にあるホーン岬は太平洋と大西洋の境にある航海の難所として知られている。私が興味を持ったのはそのホーン岬を見ることもだが海峡の向こうにある南極大陸を自分の目で見るこことであった。2019年1月にドイツ人のグループがスチール製のヨットでドレーク海峡を渡り南極半島へのセーリングを計画していることを知りそのヨット、「サラ・ボルベルグ」に7名のドイツ・オーストリアの仲間とともに乗り組ませてもらうことができた。アルゼンチン最南端の港町ウシュアイアを出発して巡った南極半島は文字通りの「白い大陸」の一部であった。1月半ばに南緯65度を少し超えたプレノー島沖でついに氷に閉じ込められヨットが動けなくなりそれ以上の南下を諦め引き返すことにした。凍りついた崖や峻険な氷河に囲まれた南極半島の景色は昔から愛読していたシャックルトンの遭遇したエンデュランス号の漂流物語を思い起こさせた。1ヶ月の航海のあとウシュアイアで下船しさらにパタゴニアの森と湖を2ヶ月ほどかけてトレッキングを続けたのちに帰国した。

 5年間にわたる米国西海岸に始まる太平洋と南極半島のセーリングはサラリーマン生活で経験した世界とは全く違う世界があることを教えてくれまさしく第2の人生を私に与えてくれた。さらにこれらの航海の記録を本にまとめ「太平洋遠洋航海記」としてリーダーズノート社から出版してもらうことができた。単独航海では自分を見つめ直すことでともすれば悲観的・消極的だった自分が自分に対してもまた周囲に対しても肯定的になったように今は感じている。60歳を過ぎた男が海とヨットに育てられたのだ。

 最後に「航海記」の出版によって私の執筆欲が刺激され新たに1冊の本を書いたことを紹介しておきたい。2012年にカナダの西海岸のクイーンシャーロット諸島を航海した時のことである。その時にアリチカ・ロックという小島とイケダ・ベイ(湾)という入江があることを海図で見つけ立ち寄ってみた。イケダ湾は手付かずの自然がそのまま残された人気のない場所のように見えたが上陸してみると古い錆びたボイラーや船の竜骨の朽ち果てた姿が目に入った。その時はそのまま航海を続けたのだが日本に帰国後当時を思い出しいろいろ調べてみると、地名は「池田有親」という日本人の名前を冠したものであることが分かった。池田は江戸時代に新発田藩、現在の新潟県、聖籠町に生まれたのち明治中期に渡米し米国とカナダで事業を起こした実業家であった。彼はカリフォルニアで農業に取り組んだ後に19世紀末期にアラスカのゴールドラッシュに加わり現地の氷河を彷徨しながら金鉱が発見されたクロンダイクを目指したが、結局辿り着けず一文無しになった。その後偶然のことからクイーンシャーロット諸島南部のイケダ湾周辺に銅鉱脈を発見し、一躍時の人となったがその銅鉱山も第1次世界大戦の終わった頃には掘り尽くしてしまった経歴を持つ。銅鉱山の登録をカナダ政府に申請したときに彼の名前がその場所につけられた。太平洋の航海を終えてから彼の日本の故郷を訪れたりカナダの関係者に問い合わせたりしながら情報を得て彼の事績を明らかにすることができた。またそれを「クイーンシャーロット諸島の山師たちーある日系カナダ移民の生涯」として1冊の本にまとめることができた。池田の話は成功した実業家の話でもなくまた何かを成し遂げた冒険譚でもないのだがその行動を知るにつけ彼に愛着が湧き、なんらかの形で書き残しておきたくなったことが執筆の理由である。本は航海記と同様にリーダーズノート社から出版される予定である。

 ヨットでの単独航海は自己責任の世界で、全てを自分で引き受けなければならず苦しいことも数多くあった。しかし登山家の山野井泰史さんが「修学旅行より小さい一人旅の方がいい思い出作りができる」と言っている通り単独航海は私に多くのものを与えてくれ、今では一つ一つが大切な思い出となっている。(了)



(1)カナダ内陸水路、グレンビル海峡、クメアロンの入り江に停泊中の蒼穹
(2)マウピティ島在住のマルセロさんの小屋にあった鯨の肋骨
(3)南極、パラダイスハーバー
星子 繁
1951年東京小金井市に生まれる。1980年東京大学大学院修了(農学博士)。同年医薬品会社に入社し32年間研究開発業務に従事したのち2011年に退職しヨットで単独太平洋を周航する。その間アラスカ、カナダ、ポリネシアなど南北太平洋を航海しながら数多くの島々・僻地を訪れ2016年日本に帰国。


  • 『太平洋遠洋航海記』詳細(ここ
  • 『クイーンシャーロット諸島の忘れられた山師たち―ある日系カナダ移民の生涯』詳細(ここ
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