2009年に公開された邦画『感染列島』をご覧になっただろうか?
そもそも、パニック・エンターテインメントという触れ込みにも何か興ざめするものを感じており、レビューの評価もそれほど高くはなく、私は観ていなかった。ところが今回の新型コロナによる感染症で、2009年に作られたこの手の邦画が、どの程度のリアリティがあるのか知りたくてとりあえず観てみた。
南の島国から持ち込まれた未知のウイルスが、日本で感染爆発を起こす。人工呼吸器が足りなくなり医療崩壊が起こる。日本が壊れていくその描写が凄まじい。作品にケチをつければいろいろ可能だろうが、私にとっては観る価値があった。いくら報道を見ていても、苦しみもがく人々の姿は見えない。映画は映画でしかないが、現実を想像するには十分なほどの、医療現場の状況が描かれていた。
そんな話を知人にしたら、それなら、2011年に公開の米国映画、スティーブン・ソダーバーグ監督の『コンテイジョン』もかなりリアルですよ、と言われて遅ばせながら観た。
香港からアメリカに帰国した女性が突然倒れて泡を吹いて死亡する。香港で青年が、そしてロンドン、東京で次々と人が倒れて痙攣し、数日間のうちに感染が全世界に広がっていく。感染拡大の初期に、一分一秒を惜しんで手を打たなければ、すべてが手遅れになることに警鐘を鳴らした映画だった。「接触感染」の怖さ、ドアノブまでをも拭くという神経質な行為の意味合いをも分からせてくれる内容だった。
2020年4月8日、まさにアメリカがオーバーシュートに突入してパニックになっている最中に、Newsweekは、この映画の脚本家、スコット・Z・バーンズ氏のインタビューを掲載していた。恥ずかしながら私はこの記事も読んでいなかった。
Newsweekでバーンズ氏は、現在のアメリカの防疫体制に痛烈な批判を述べていた。
まず、優れた公衆衛生の専門家に対応の指揮を任せておらず、十分な数の検査キットもない。しかも映画を撮影したときには存在した、パンデミックに対する政府の事前対策チームが解散させられていたという。
「アメリカの指導者たちがCDCの予算を削減し、感染症への防衛態勢を骨抜きにするとは思いもしなかった」とバーンズ氏は驚いてみせた。パンデミックは、もはやパニック・エンターテインメントの素材ではなく、人類がサバイバルする現実の土俵なのだと実感した。
5月14日、39の県で緊急事態宣言が解除された。
私はふと『感染列島』や『コンテイジョン』の映像を思い出していた。映像の持つ力は大きく、私は、パンデミック映画の凄まじさと現実をオーバーラップさせていた。
感染者は減っているというものの、今でも、日本では毎日のように新たな感染者が見つかり、死亡者が伝えられている。他国では、今でも、わずかな感染者を発見して、再度ロックダウンしたり市民全員の検査をしている。
昨日、5月18日、NHKは世論調査の内容を発表した。その中に、この39の県で緊急事態宣言の解除は、「早すぎた」と思うか、それとも「適切なタイミングだ」と思ったかを聞いた設問があった。
「早すぎた」と答えた人が約半数の48%に達し、「適切なタイミングだ」の36%を大きく上回っていた。多くの人が自粛要請で苦しい思いをしているなかでも、解除を支持しない人が半数に及んでいた理由について、政府関係者はもう一度、しっかり考えたほうがいいだろう。
振り返ってみれば、4月7日、政府による緊急事態宣言が出されたあと、日テレと読売新聞が行った世論調査にも、私はかなり驚いていた。緊急事態宣言のタイミングについて、「遅すぎた」とした人は82%にも達しており、「適切だった」と答えた人は、わずか15%に過ぎなかったからだった。あのとき国民の多くが安倍首相のトロさに耐えられず、今か今かと、緊急事態宣言を待っていたことは分かっていた。しかしそういった感覚の人が、まさか8割にも及んでいるとは思わなかった。日テレと読売新聞による限られた調査ではあったが、8割というのは驚異的な数字だった。
安倍嫌いの人たちも多数いるとはいえ、長期政権を担ってきた安倍首相の態度は、いまの日本人を象徴している。少なくとも私は長い間、そう感じていた。
すなわち、日本人の平和ボケも、どんな国とも調子を合わせることも、事なかれ主義で、はっきり物事を言わないことも、それは日本の伝統でもあり、安倍首相の戦術の一つであって、そんな安倍首相に私は、それほど否定的ではなかった。
だが、世界がほぼ同時に、どんな戦争以上もの死者を覚悟しなければならず、経済と生活が破壊される緊急事態時において、煮え切らない安倍首相の態度に私は苛立ちを覚えていた。一方で、私はこの緊急時に、国会での揚げ足取りのようなくだらない質問をする野党にも、実はジレンマを感じていた。
このとき、4月7日の世論調査は、「自粛の要請で十分か」という質問も投げかけている。「不十分だ」と答えた人は、59%にもおよんでおり、「十分だ」とした意見の33%を大きく上回っていた。6割もの人が「自粛などではまずい、もっと厳しくしなくては」と思っていたのである。
すなわち日本国民の多数は、前述のようなパンデミック映画などは観ていなくても、中国の武漢やイタリア、EU各国、アメリカの惨状の現実を知って、このパンデミックを引き起こしたウイルスについて、人類を脅かすものとして認識していた。そして、これを防ぐためには、一刻も早く感染者の洗い出しと隔離が必要だと感じ、ロックダウンにも匹敵するような厳しい規制を受け入れる心の準備が、すでにできていたのではないだろうか。
私には、安倍首相の態度は、目の前で溺れる子供を目にしながら、何もせずに眺めている頼りない男に映った。日頃は威勢のいいことを言っている男が、実は口先だけで、暴漢が現れたら、戦うどころか女子供を差し出して逃げるような、武士の風上にもおけない根性のない男に見えた。
断っておくが、私もまた、危機に対して国家主義や軍国主義が台頭することに危機感は持っている。しかしそれでも緊急時のリーダーシップは重要であると思う。
自民党うんぬんでも右や左の思想信条でもなく、このパンデミックという緊急事態において、この人たちに命を預けられないと思ったのだった。
それゆえにその比較において、小池都知事や、自ら声を発したiPSの山中教授、医療危機宣言を出した日本医師会の横倉会長らの言葉が響いた。
また私の最も嫌いなタイプの男、韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領が、このパンデミックへの対応で今、株を上げている。あのニヤケ顔と日本への態度にはムカついていたのだが、緊急時にやるべきことをやった功績は大きい。
実際に蓋をあけてみると、日本政府の出した緊急事態宣言の内容は、世界各国から驚かれるほどの甘々だった。検査がまともに進んでいないために、いつ院内感染がひろがるのかと病院関係者が怯える状況が続いてきたにも関わらず、まるで馬鹿正直に家にいる人を見下したように、外に出てパーティーをし、サーフィンに繰り出し、地方にまで旅行し、パチンコ屋に並び、ホームセンターで買い物を楽しみ、商店街に集まった人たちがいた。
政府は、そういうことが起こるという想定はできなかったのだろうか。
本日、5月19日、英キングス・カレッジ・ロンドンで公衆衛生研究所長を務める渋谷健司教授が、時事通信のインタビューに答えた記事が発信された。記事によれば、渋谷健司教授は、日本の新型コロナウイルス感染対策について、「爆発的な感染増加を抑えることはできたが、第2波は必ず来る」と述べ、ウイルスとの長期の闘いを念頭に、医療や検査体制の充実が不可欠だとの考えを強調していた。感染者の減少に浮かれるなということだろう。あえて下記に、渋谷教授の言葉を転載しておきたい。
「日本がこれでうまく乗り切ったと考えるのは禁物だ。そういう印象を持つと、感染の次の波が来た時に危険だ。このウイルスとの闘いは本当に長期戦で、野球に例えると1回の表裏が終わったぐらいでしかない」
「患者の急増時に耐えられる医療体制と、検査対象者を広げ、感染動向のモニタリングを強化することだ。日本はクラスター対策でせっかく時間を稼いだのに医療体制や検査が十分ではない。重症者の検査にリソースを投入するのは、そのこと自体は正しい。ただ、この病気の一番の問題は無症状や軽症の人がそれと知らずに周りに拡散してしまうことであり、病院や介護施設での被害が広がった。それを防ぐためには検査の網の目を広げ、感染者を把握し、隔離する方向に転換していく必要がある」 時事通信 2020年05月19日より
邦画『感染列島』や米国映画『コンテイジョン』を観たあとで、この渋谷教授の言葉を読み直すと、あらためて実感できることがある。
それは、政府や専門家の役割は、人々を怖がらせないことではなく、「むしろ、より正確な情報によって、しっかりと国民を怖がらせることも必要である」ということだ。
安倍首相やそのお仲間たちは、パニックを起こさせないことに力を注ぐことは忘れなかったが、そこに目が向かなかった。デマやパニックは確かに恐ろしい。だが、私たちは、むしろ安倍首相の、必要な決断ができない態度にこそ、パニックを起こしそうだったのである。
その意味では、私は、オーバーシュート(感染爆発)やロックダウンなどという言葉を使い、緊急時の手配を素早く進めた小池都知事や、「人と人の接触を8割減らさないと、日本で約42万人が新型コロナウイルスで死亡する」と発言した厚労省クラスター対策班に所属する西浦博教授を評価したい。
最悪の結果を示すことで、しっかりと恐れてもらうことも必要だからである。
ちなみに、「国民を脅す行為だ」などと言われ、いわば袋叩きにされた西浦教授は、その後、文春オンライン(4月22日)に、こう弁明していた。
「感染者数が減らなければ、死亡者数を減らすのは難しいと伝えるのが、もともとの意図でした。私のいまのシミュレーションはR0(1人が平均何人に感染させるかを示す『基本再生産数』)を2.5にしています。これは、感染拡大が爆発的に起こったヨーロッパ、主にドイツが2.5だったので、日本でもそれ相応で流行が拡大すると想定した数字です」
「専門家会議が発表した東京都のR0の推定値である1.7でシミュレーションするべきではないかという主張も、正当なことだと思います。しかし、私自身は日本でもR0が1.7から上がっていく可能性は十分にあると考えています」文春オンライン(4月22日)
自分が不利になることも厭わず行動を起こした西浦教授に大きな拍手を送りたい。
厚労省は、何とか感染者や死者数を少なくみせようと画策し、ダイヤモンド・プリンセス号やチャーター機での帰国者、空港検疫で判明した陽性者の数をも除外しようとしてきた。しかし死者数はいずれ1000人を超える。
日本は、中国で感染爆発が起こった時に、それを他山の石として、「医療崩壊を防ぎ死者数を抑えることこそ最大の目的だ」と言い続けてきた。
中国(14億人)は、日本(1億2,500万人)の約10倍の人口を持っている。単純計算、日本の死者1000人は、中国の死者1万人に匹敵する。中国は多数の死者を隠しているとの主張に私は賛成だが、5月19日現在の中国の発表する死者数が約4600人であることを考えると、人口あたりでいえば、日本はすでに中国より死者数が多くなっている可能性が高い。
「検査をして陽性反応が出ると入院させなければならず、検査を増やすと医療崩壊につながる」との主張も、依然として根強くはびこっており、いまだに日本がPCR検査数を増やすことに抵抗する意見も散見される。
だがこの主張を信じる人は、感染者が病院を訪れるリスクを語らない。このままではむしろ院内感染のリスクがヘッジできないばかりか、医療難民が増える可能性もある。
5月17日、高度な医療を担う特定機能病院の少なくとも3分の1が、新型コロナウイルスの院内感染を防ぐために手術前などにPCRの検査をしていることが読売新聞の調査で分かったという。また、埼玉県は5月19日、「疑い患者」の救急搬送でたらい回しが問題になる中、PCR検査体制を備えて、「疑い患者」を受け入れる医療機関を10から20か所指定すると発表した。
いずれも政府の対応を待てずに、独自の検査体制に踏み切った結果である。
検査さえ進めば、いままでどおりの日常を取り戻すことも不可能ではない。しかしウイルスが、いまなお日本各地に静かに潜み、無症状の感染者をじわじわと広げている可能性を否定できない疑心暗鬼のなかでは、旅行はおろか、居酒屋に飲みに行くことさえためらわれるからだ。その先にあるのは、自粛を解き、店を開いても採算が合わず閉店や倒産が相次ぐという現象だ。
そのような不安を持つ国民の多数意見に反して、いま、緊急事態宣言の全面解除に向けての話が進んでいる。
「コロナは、マスコミが騒いでいるだけ」「本当は自粛さえも必要なかった」という程度の意見しか持てない、いわばホリエモンに感化されるような情弱(情報弱者)が、必要以上に動き回って感染を拡大させる可能性がある。
新聞はおろかテレビやインターネットもない高齢者の場合は、責めるのも気の毒であるが、始末に負えないのは、この期に及んで、政治家、医療関係者、タレント、メディア関係者、学者など、インテリジェンスや社会的地位、知名度が極めて高い人の中にも、自粛の意義さえ理解できないコロナ情弱がいることである。
このままでは大感染圏と地方の軋轢はもとより、第2波、第3波を心配しながら慎重になっている大多数の人と、安易に動き回る一部の楽観者の間での軋轢が、ますます大きくなる。
一時は自警団が監視をしなければならないほど、地方の危機意識も強くなった。しかし問題は、北海道や首都圏、関西圏などの感染地区からの流入を監視するだけではまったくもって足りないだろうということにある。
検査が全国民に進むまでは、感染者の少ない県に住む人も、大感染期には自分たちの身近に無症状の感染者が多数いるのだと仮定して、多数での宴会を避け、人の多いところではマスクを着け、外出後には手洗いとうがいをし、ドアノブや購入品を、いちいち丁寧にアルコールで拭いたほうがいい。
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